ニーラゴンゴ火山爆発による難民への緊急支援活動
コンゴ民主共和国 ゴマ  (2002年1月31日〜2月2日)

 2002年1月17日、コンゴ民主共和国(旧ザイール)ゴマ近郊のニーラゴンゴ山(標高約3470m)が噴火を起こし、溶岩は空港や町を飲み込みました。現在も十数万人が避難生活をしているといわれ、一部は国境を越えてルワンダのギセニまでも来ています。
 奇しくもこの日は、7年前に日本でも阪神・淡路大震災が起こった日でもあります。あの日私たちが知った、都市直下型の災害の恐ろしさ、一人一人の物心両面の痛みは、ゴマの人々にとっても同じだと思います。

 一時的な緊急援助だけではなく、長期的な復興を視野に入れた支援が必要とされています。

 報    告
美穂 ARCルワンダ駐在代表
現地の様子(画像)についてはこちら

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 友人であるJesus Alive Ministries International (JAM, Relief and Humanitarian NGO, 本部は南アフリカ) が、薬品、毛布、水用容器などを持って、火山爆発により生じた難民の緊急支援に行くから、一緒に来ないかと誘ってくれたので、参加することにした。この団体は、ギタラマ (Gitarama)で孤児院をしていて、本部から、定期的にこのような物資を送ってきており、彼等のストックから難民の為に役立つ物を支援することにしたとのこと。他に、韓国から来ているGood Neighborsという医療援助NGOも、参加して薬品と食品を支援することになった。たまたまルワンダを訪れていた知合いのイギリスの研究者Hも参加すると言うので、我々は、前日にギタラマ入りして、その日は、JAMのゲストハウスにお世話になった。

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 朝6時半にギタラマを出発。朝食は紅茶のみ。物資を積んだ大きなトラック(4トン?)1台、ダブルキャビントラック2台、ミニバス1台、乗用車1台で総勢約20名。途中、路上でモンキーバナナを買って社中で食べ、ルヘンゲリ(Ruhengeri)で休憩する。道路は結構整っているが、クネクネ道なので、一緒にミニバスに乗っていたJAM代表夫人ニーナは、途中で車酔いし車窓から吐いていた。代表夫妻の二人の娘、6才と9才は途中で眠ってしまった。途中ダブルキャビントラックが止まってしまったり、我々の乗っていたミニバスも止まって、エンジンを押しがけする羽目になったりしながら、コンゴへの国境の町ギセンニ(Gisenyi)には11時半に到着。ギセンニの町で見かけた難民キャンプは一か所だけだった。ここでやっとオムレツ、パンと紅茶の朝食をとる。ルワンダはどこへ行っても景色が綺麗だが、ギセンニはその中でも、山の連なる景色が続き、特に美しい所だ。また、土地が非常に肥沃なようで、メイズやお茶などが豊かになっている。また、キブ湖沿いには、ヤシのなるビーチに綺麗なホテルが並んでいる。外国人も多いからだろうが、物価は驚くほど高い。500mlのミネラルウォーターはキガリでは200フラン(56)だが、ここのホテルでは500フラン(140) 。朝食も、キガリの一流ホテルよりもずっと高い。午後1時に国境へ到着。出国手続きは、出国カードに記入して、パスポートにスタンプを貰うだけで、スムーズに済んだ。ルワンダ人は、身分証明書を見せ、切符を貰うだけ。しかし、この後、実際国境を通過するには30分程待たされた。通関手続きの為に、積み荷のリストも用意してあり、緊急援助に行くのだから、それで充分なはずだが、理由も分からず待たされる。賄賂が要るところなのかも知れないが、JAMの代表とスタッフが交渉して、何とか国境を通過。そして、今度は、コンゴ側の入国管理に行き、またパスポートコントロールを受ける。NGOが活動の為にコンゴ入りする場合は、ビザ代は免除されるということらしい。
 我々の活動する教会は、国境から町を通り抜け、車で約
10分のところにあった。このすぐ横はゴマ空港で、一部は今回の爆発の溶岩に覆われている。ゴマの町自体は、ホテルや店、レストランなどが沢山並び、なかなか大きな町だが、これも30パーセント位が溶岩に覆れているようだ。この教会には、今回の爆発で家を失った約280世帯(3000)が避難している。なかなか大きな建物だが、中に入ると長椅子で仕切った区画の中に、人がゴロゴロ寝ている。マットレスのような物を持ちだせた人もいるようだが、ほとんどの人は毛布のような物にくるまって寝ていたりして、所有物は全て失ってしまったようだ。教会の周りの原っぱでは、多くの人が石炭で料理をしたりしていた。ただウロウロしているようにも見えるが、ここで皆野外生活をしている。まず、この教会の牧師さんと支援活動の手順について簡単に話し合う。食品や毛布の配付は、通りがかりの人達も避難民の振りをして来ることが予想されるので、避難民のリストを作成してからの方が良いとアドバイスされる。仕事に出掛けたりして、その場にいない人もいるということで、リストが出来るのは翌日になるとのこと。その日は、まず、避難民の為のテントを建て、緊急医療援助をすることになった。JAMは、テントを建てる為のスタッフ、医療援助の為の看護婦と看護婦見習いも連れてきていた。牧師の事務所を診療所に使うことにし、私と英国人研究者は医療援助のお手伝いをすることになった。看護婦と看護婦見習いは、共にルワンダ人で、キニヤルワンダ語とフランス語は話せるが、診療に来る人達の中には、コンゴのローカル言語しか話せない人もいる為、現地の人でフランス語が話せる人を二人、各々の通訳としてついて貰うことになった。赤ちゃんを優先的に診療することにし、この日だけで約50名の診療が行なわれた。 テントの方は、6-8世帯が入れるような大きなテントが3つ、小さめのテントが5つ、みるみるうちに建てられていった。JAMは水浄化装置を本部から届けて貰えるので、設置場所の下見もしていた。我々は途中で、溶岩流の跡を見に行った。溶岩が流れ込んだ所は、本当にすっかり呑み込まれていて、全く何も残っていなくて、有るのは溶岩だけだ。触るとまだ暖かい。この間までは、この溶岩の熱でじゃが芋やメイズを焼いていた人もいたらしい。とりあえず道路は片付けられていて、車で通ることは出来たが、溶岩の流れ込んだ所とそうでないところは、線一本の違いでギリギリ助かった家も沢山有る。ゴマの町を隈無くまわったわけではないが、難民キャンプは所々に散らばっていて、大抵国際NGOが支援に入っているようであった。
 夕方になると雨が降り、難民達は教会の中に入ってきた。その為教会の中は大変混雑していた。教会の正面の軒下に七輪を持ってきて料理していたが、雨宿りしている人達でごった返している。バケツを外に並べて雨水を集めたり、軒から滴る水でお皿を洗ったりしている人も沢山いる。我々は食料や毛布等の配付が明日にしか出来ないこともあり、この日の活動は5時頃に終了することにして、バタバタと車に乗り込んだ。ゴマに泊まるのは危険だという話も有り、国境を早く越えなければいけないので、大慌てだ。6時に何とか国境を越える。ギセンニに戻って、朝食を取ったホテルに泊まることになった。夕食はホテルで取るとあまりに高いので、各々が部屋にチェックインしてから、外で取ることにする。ミニバスのエンジンの調子が悪く、ずっと押しがけしていたのだが、とうとう動かなくなった。諦めて他の車に分乗して出掛ける。レストランはキヴ湖の側なので、とれたての魚が食べられるという話だったのだが、行ってみると冷凍の魚だった。火山爆発で湖に溶岩が流れ込んだ為、暫くはこの辺りの湖の魚が食べられないとか。何だかんだで、ホテルに戻ったのは10時をまわっていた。

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 この日は
7時半に出発の予定だったが、何しろ人数が多いし、チェックアウト等様々なことに時間がかかり、朝食も取らず9時に出発。昨日も通過しているので、国境はすんなり越えることが出来た。教会に着くと、野外テントが設置された為、それまで教会の中で寝泊りしていた難民は、テントの方に移動していなくなっていた。我々は着いてすぐ、緊急医療を開始。診療が始まると、診療室の前は子供を抱えたお母さん達ですぐに一杯になった。この日はリストに基づき、支援物資を配付することになっていたので、JAMのローカルスタッフ達が、物資を教会内に運び込み、牧師を中心に皆でお祈りをした。混乱を防ぐ為、難民が数家族ずつ教会の中に入るよう、スタッフが入口で整理をした為、配付はスムーズに進んだ。JAMは他に、トイレ設置資材も持ってきていたので、現地の人を使って、トイレの穴掘りも行なった。また、この日は赤ちゃんの為に、布おむつも配付することになっており、診療に来た赤ちゃんの名前をリストで確認した上で、手伝いに来ていた英国人研究者が、配付することになった。すると、明らかにおむつの必要のない4才児を連れてきているお母さんまでもが、おむつが欲しいと言い出す。色々な人が、「今は連れてきていないが赤ちゃんがいる。」、などと言っておむつを欲しがる。これには彼もまいっていた。おむつ等、数に限りがあるので、本当に必要な人だけにしか渡すことが出来ないのだが、それは彼等には伝わらない。ただの物は何でも欲しい、という精神がありありと見える。この日の活動は午前中だけの予定であったが、診療に来る人が多く、なかなか終了出来ない。しかし、その日のうちに終了出来る見込みもないので、現地人で通訳をしていた男性で看護士の資格、経験を持っている人に、今後の診療を託すことにした。持ってきている薬品類は高価なものであり、全て残していくと売りさばかれる可能性がある為、約50人分を残していくことになった。私とJAMルワンダ代表夫人のニーナが、薬品類の計量に取り掛かった。二人で部屋の角にしゃがみこんで薬を数えていた時である。ふと気づくと、部屋の中は異常な熱気のお母さん達で一杯になっている。最前線にいるのは、もうすぐ出産という大きなお腹の妊婦。「ギブミーナッピー!」と数人が叫んでいて、皆必死で手を前方に差し出している。英国人研究者は、おむつがもう2パックしか残ってないことを説明している。私は彼女達が暴力でおむつを奪う為、彼を襲うのでは無いかと案じた。私はとっさに立ち上がって、「ステイバック!!バック!バック!」と彼女達を部屋から追い出そうとした。結局、彼女達の中の強そうな人がおむつを引ったくり、彼が空っぽになったおむつの箱を見せると、他のお母さん達は、もうおむつが無いことを理解し皆部屋から出ていった。ほんの1-2分のことだったと思うが、これでどっと疲れ、正直に言って、我々は皆うんざりした気分になった。もうすっかりお昼をまわっているのに、朝食も昼食もとっていなかった。ひどい空腹感と暑さが重なり、ふらふらになっていた。緊急事態にも関わらず、難民ではない人達にまで物やお金、仕事をせびられたり、また通訳に給料をくれと言われたりと我々の仕事を遮ってくる。アフリカではよくあることなので頭では理解しているものの、精神的にドッと疲れたことは否定出来ない。この後薬品の整理を済ませ、薬品リストを作成して現地の看護士という人と牧師に託した。結局、午後2時頃に大急ぎで教会を出て、昼食を取りに国境付近のホテルヘ向かった。食事にありつけたのは3時近くであった。食事の後また教会へ戻って、診療の様子を見に行った。看護士は、我々が出た後診療を続け、もう既に20人以上を診療していた。これに少し安堵して、最終的なチェックを済ませた後、またばたばたと車に乗り込んだ。国境を越えたのは5時半であった。この後直接、休憩もなくギタラマへ向かって車を走らせた。私は、ギタラマとキガリへの分かれ道で下ろして貰った。

その後
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日後、JAMはまたゴマへ戻り、水浄化装置を設置した。診療の方は、同じ教会の部屋で継続され、別の看護士が診療をしており、病名等できちんと統計を取り、チャートも作成していたとのこと。JAMは、この難民達への長期支援をすることを決定し、現在そのプロポーザルを作成中。そして、ARCも参加しないか、という誘いがある。主に医療、衣料類の支援を、彼等が住居へ移動出来るまでの約1年間に渡り、支援するというもの。住居や、仮設住居の設立支援も出来れば良い、と考えているようだ。